コレクションCollection

館蔵品の概要

志野茶碗 銘卯花墻
志野茶碗 銘卯花墻
日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、本阿弥光悦の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみである。美濃の牟田洞窯で焼かれたもので、歪んだ器形・奔放な篦削り・釉下の鉄絵などは織部好みに通じる作行きといえる。もと江戸の冬木家にあり、明治20年代中頃に室町三井家の高保の有に帰した。

三井グループで知られる三井家は、江戸時代初期に伊勢国松坂出身の元祖・三井高利(1622~94)が、延宝元年(1673)に江戸本町に「越後屋」を開店したことに始まります。呉服の反物の切り売り、現金取引を行い庶民の人気を集め繁盛、その後、京都、大坂、江戸で呉服と両替店を開き、幕府・朝廷の御用を受けるほどに発展しました。その後事業を拡大し、明治以降は三井銀行や三井物産などを設立し、戦前には150余社に及ぶ三井財閥を形成しました。

三井記念美術館が所蔵する美術工芸品は、現在約4000点、切手類が約13万点に及んでおり、このうち国宝が6点、重要文化財が75点(本館所管1点を含む)、重要美術品が4点を数えます。美術工芸品は茶道具を中心に、絵画、書跡、刀剣、能面、能装束、調度品など多岐にわたり、おもに三井家十一家のうち北家(惣領家)、新町家、室町家、伊皿子家、本村町家から寄贈されたものです。また、切手類は南家からの寄贈品と、三井家以外ですが、元ダイセル社長の昌谷忠コレクションがあります。このほか、三井家同族の浅野氏から雛人形を、三井家と姻戚関係のある鷹司家から刀剣類の寄贈を受けています。

雪松図屏風 円山応挙筆
雪松図屏風 円山応挙筆
一面の雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を、墨と金泥と紙の白色のみで情感豊かに描きだす。松は輪郭線を用いない没骨技法をもってし、右隻には直線的で力強い樹幹、左隻には曲線的な松の全景を配する。写生を基礎に、これを伝統的な装飾画風と融合させた平明で清新な応挙様式の代表作である。

所蔵品の中核をなす茶道具には、国宝「志野茶碗 銘卯花墻」や重要文化財「黒楽茶碗 銘俊寛」、「大名物 唐物肩衝茶入 北野肩衝」をはじめとする名品・優品が含まれています。

絵画では、三井家と親交のあった江戸時代中期の画家・円山応挙の国宝「雪松図屏風」を筆頭に、円山・四条派の作品が比較的多く、また重要文化財「日月松鶴図屏風」や梁楷筆「六祖破経図」なども著名です。

書跡は、藤原定家の国宝「熊野御幸記」、重要文化財「古筆手鑑 たかまつ」をはじめ、墨跡、古筆切、経巻などを所蔵しています。また新町家九代・三井高堅が収集した中国古拓本は、聴氷閣(ていひょうかく)コレクションとして国内外に知られています。

能面は北家が金剛流宗家より譲り受けた54面が、「旧金剛宗家伝来能面」として、一括して重要文化財に指定されています。また国宝2点、重要文化財7点を数える刀剣や、日本最古の墓誌である国宝「銅製船氏王後墓誌」など、質の高い文化財を多数所蔵しています。

熊野御幸記 藤原定家筆
熊野御幸記 藤原定家筆
建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇(1180~1239)の熊野への御幸に随行した藤原定家が記した23日間の記録である。ときに上皇は21歳の若さで4度目の御幸、一方の定家は40歳で初めての参詣であった。上皇の熊野御幸を詳細に伝える唯一の記録として単独に扱われるが、同時に定家の日記『明月記』の一部ともいえる。
銅製船氏王後墓誌
銅製船氏王後墓誌
鍛造の銅板の表に古代渡来系官人の船王後の出自と経歴が、裏には没年と埋葬の経緯が計162文字で刻まれたもので、わが国の墓誌として現存最古の年紀をもつ。王後は推古・舒明両朝に仕え、冠位十二階第三等の大仁位に叙せられた。辛丑年(641)に没したが戊辰年(668)に夫人とともに河内国松岳山に改葬されたという。
短刀 無銘正宗 名物日向正宗
短刀 無銘正宗 名物日向正宗
石田三成が所持し、その妹婿福原直高に与えたが、関ヶ原合戦のとき東軍の水野日向守勝成が分捕りしたところから日向正宗の名がある。その後紀州徳川家に伝来した。正宗短刀の筆頭に挙げられる名刀である。正宗は鎌倉に住み、相州新藤五国光だけではなく、古備前物・古伯耆物を学んで相州伝を完成させた名匠である。
短刀 無銘貞宗 名物徳善院貞宗
短刀 無銘貞宗 名物徳善院貞宗
前田徳善院玄以が秀吉から拝領した所から徳善院貞宗の名がある。のち徳川家康、紀州徳川頼宣、西条松平家と伝来した。表裏には不動明王と金剛夜叉明王の梵字に三鈷剣と香箸が巧みに彫られている。相州貞宗は正宗の養子とも伝えられ、師風をよく継承しているが、正宗よりも穏やかな浅く大きい湾れを焼いているのが見所である。
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