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三井越後屋が延宝元年(1673)に開店してから令和5年(2023)で350年を数えます。公益財団法人三井文庫・三井記念美術館では、これを記念して特別展「三井高利と越後屋―三井家創業期の事業と文化―」を開催いたします。

展覧会の趣旨

作品画像
駿河町越後屋正月風景図 鳥居清長筆

三井越後屋が延宝元年(1673)に開店してから令和5年(2023)で350年を数えます。公益財団法人三井文庫・三井記念美術館では、これを記念して特別展「三井高利と越後屋―三井家創業期の事業と文化―」を開催いたします。 三井グループの創業者、三井高利(みついたかとし)(1622〜94)。52歳のときに呉服店「越後屋」を開き、「現金掛け値なし」の商法で当時の商慣習を覆した、江戸時代の革新的経営者です。高利と子どもたちは様々な画期的商法で成功を収め、事業を発展させました。

三井各家では、事業の発展とともに茶の湯などの文化活動にも力を入れていきます。とりわけ急成長を遂げた享保から元文年間(1716〜41)にかけて、多くの名物茶道具を収集しています。それらのなかに当美術館まで伝わった名品がいくつもあります。

本展覧会では、三井の家法「宗竺遺書(そうちくいしょ)」や分厚い経営帳簿など普段見ることのない歴史資料、急成長のなかで収集した名物茶道具の数々、絵画や先祖伝来の物品などを通じて、創業期から成長期の事業・文化・信仰をわかりやすく展示し、多くの方々にご理解していただくことを目的といたします。三井の商売のポイントや三代経ても潰れず発展を遂げた秘訣などは、現代のビジネスに通じるものもあるかもしれません。江戸時代最大級の豪商、三井の世界をご堪能ください。

展示概要

本展覧会では、のちの三井財閥・三井グループの礎となった三井家創業期の事業や、黎明期の三井家の人々にまつわる文化活動を、歴史資料と美術工芸品を通じてご紹介いたします。
創業者である三井高利をはじめ、祖父・父母・兄弟・ 子供たち由来の書画や道具類、創業期の事業の成り立ちや発展を伝える記録類、三井の資産蓄積のなかで三井家の人々により収集されていく名物道具類、そして伊勢神宮や三囲(みめぐり)稲荷など三井の信仰にかかわる資料など、三井家に収蔵されていた名品や、これまで一般の目に触れる機会の少なかった歴史資料をご覧ください。

主な展示作品

展示室1三井越後守(えちごのかみ)から高平まで、黎明期の人々と愛用品

高利の祖父高安から長男高平まで、創業以前~黎明期の人物の足跡を辿ります。ここでは自筆の書、愛用品、関連資料など、歴史資料と美術工芸品を展示いたします。 高安の名乗った「三井越後守」と書かれた唯一現存する資料(①-1)、14歳で高利が江戸に出て勤めた長兄俊次の店を想起させる店頭図(①-2)、高利夫妻を描いた肖像画(①-3)、高利愛用の足袋、妻かね(寿讃)の所持と伝わる硯箱、高利の自筆帳簿(①-4)、高平が作らせた寿老人像、などを通じて、三井家創業以前のエピソード、黎明期の人々の姿をご紹介いたします。

展示室2高利愛用品1=赤楽茶碗(銘再来)

毎年伊勢松坂に集まった一族の椀飯(おうばん)振舞いの席で、高利が濃茶を点てたという茶碗(②)で、樂家三代道入(どうにゅう)(通称ノンコウ)の作です。高利の生前に室町三井家初代高伴(たかとも)が所望して譲られ、以来、三井家を転伝してきたもので、高利の茶の湯に関する唯一の遺品です。

展示室3高利愛用品2=十徳

高利が着た十徳(③)を展示いたします。十徳は、もとは僧衣から出たもので、江戸時代には儒者や医師・絵師などが用いた外出着。絽や紗のうすもので作られます。

展示室4高利の事蹟と三井家創業期の歴史

三井の事業の始まりと展開を、(1)松坂での高利、(2)越後屋創業、(3)駿河町移転、(4)三井の事業、(5)三都への店舗展開、(6)子供たちによる家業継承、(7)駿河町の繁栄、の7つのテーマで、高利の事蹟などを交えつつ時代を追ってご紹介いたします。
延宝元年(1673)の越後屋創業期の規則(④-1)、三井の二大事業である呉服業・金融業の記録類や道具類(④-2・3)、本因坊道悦から贈られた碁笥(ごけ)(④-4)など幕府の御用にまつわる物品、江戸時代の三大都市(京都・江戸・大坂)に店舗展開した姿を示す絵画(④-5)、統轄機関「大元方(おおもとかた)」の総決算帳簿(④-6)や、家法「宗竺遺書」(④-7)といった、次世代の事業継承や体制整備の取り組みに関する記録など、主にビジネスにかかわる記録類や物品を展示いたします。

展示室5享保~元文年間(1716〜41)の茶道具

三井各家では、三井の事業の発展や富の蓄積とともに、文化的な趣味生活に費やす余裕が生まれてきます。特に茶の湯は、京都の豪商として必須の教養でもあり、茶道具の名品を所有することがステイタスでもあり、また商取引上の担保物件ともなるところから、三井各家でも享保年間(1716〜36)・元文年間(1736〜41)から名物茶道具の収集がはじまりました。三井家寄贈の名物茶道具や道具帳などからその動きが垣間見えてきます。
ここでは、(1)享保年間入手、として重要文化財の唐物肩衝茶入(北野肩衝)(⑤-1)、(2)北三井家二代 高平(たかひら)、として中興名物の瀬戸二見手茶入(銘二見)(⑤-2)、(3)北三井家三代高房(たかふさ)、として真台子伝受書(⑤-3)、(4)元文年間入手、として中興名物の瀬戸 塞手(こしじで)茶入(銘常如院(じょうにょいん))(⑤-4)、(5)新町三井家「元文道具帳」記載、として珠光青磁茶碗(銘波瀾)(⑤-5)などを展示いたします。

展示室6高利夫妻の消息と高利自戒書

高利から四男の室町三井家初代高伴に当てた手紙と、高利の妻かねから高伴にあてた手紙、および高利が自らを戒めた自戒の書を展示いたします。

展示室7三井家と神々

江戸時代の三井家では神々への信仰も篤く、商売繁盛の御利益で知られる恵比寿・大黒天などの福の神、商売繁盛から五穀豊穣まで様々な御利益のある稲荷(三囲(みめぐり)稲荷)、三井家の本籍地である伊勢の伊勢神宮などを大切にしていました。また、戦前まで、三井家の祖先を祀る顕名(あきな)霊社という神社を整え、高利以前の歴史を伝える記録類を収めていました。
ここでは、(1)福の神への信仰、として三井家当主の筆による福の神の絵(⑦-1)、(2)伊勢神宮への信仰、として伊勢参詣曼荼羅(⑦-2)や伊勢の 太々神楽(だいだいかぐら)に関する記録類(⑦-3)、(3)三囲稲荷への信仰、として三囲稲荷を描いた絵図(⑦-4)、(4)先祖を祀る顕名霊社、として高利の祖父高安のものと伝えられる甲冑など顕名霊社の伝世品(⑦-5)や、戦前の霊社の様子を伝える日誌(⑦-6)や絵図を展示し、主に江戸時代の三井家における、神々への信仰のあり方をご紹介いたします。

参考資料

1三井高利と創業期の三井の事業について

三井高利(1622〜94)は伊勢松坂に生まれました。祖父高安は佐々木六角氏の武士として越後守を名のりましたが、六角氏滅亡後は伊勢に移り住みます。父高俊と母殊法の代に松坂で酒・味噌と質屋を営み、特に殊法の商才により繁盛しました。この店は「越後殿の酒屋」と呼ばれていましたが、時の松坂城主の指示により「越後屋」と名乗りました。

高利は八人兄弟の末っ子で、14歳のとき、江戸本町に小間物と呉服の店を出して成功していた長兄俊次の店に入り、商才を発揮して兄の店を繁盛させます。28歳で母の面倒を見るため帰郷し金融業を営みました。俊次の存命中は江戸に出店しませんでしたが、兄の亡くなった延宝元年(1673)、江戸本町一丁目に間口九尺の呉服店「越後屋」を開業し、同時に京都に仕入店を設けました。三井の事業の始まりです。(このため高利は、創業期の三井を描いた記録で「元祖」とされています)

この店の実務は高利の息子たちが担いました。「現銀(金)掛け値なし」の看板にみるように、店頭での現金定価販売と様々なサービスが江戸の住民のニーズに合い、10年後の天和3年(1683)には駿河町に移転して両替店も併設しました。元禄頃には幕府の呉服御用や為替御用を請け、江戸・京都・大坂の三都に大店を構える豪商に発展し、「日本一の商人」と自他ともに認める存在となりました。高利は二つの事業部門と三都への店舗展開を見届けて、元禄7年(1694)に73歳で亡くなります。

高利没後、子供たちや創業以来のベテラン奉公人が高利以来の事業を引き継ぎ、商売をもり立てていきました。享保年間(1716〜36)、彼らの隠居・死没が続き、享保の改革による幕政の立て直しによる不況も相まって、三井家も事業のあり方や次世代への継承などの課題に直面します。そこで三井は、複数の事業、多数の店舗、大勢の同族を取りまとめる「大元方」と呼ばれる統轄機関を設置し、事業と三井家を一体的に管理するしくみを整えます。また、長男の高平が自らの遺書の体裁で三井の家法「宗竺遺書」をまとめ、三井同族を9家とし(のち2家追加して三井11家となる)、財産共有制を定めるなど、家と事業のあり方を方向付けました。さらに、高利の子供たちは高利以来の事業・事蹟を次世代に伝えるため、三井の家と事業の歴史を様々な記録に書き残しました。これらの取り組みで三井は危機の時代を脱することができました。

元文年間(1736〜41)になると、幕府の貨幣改鋳を機に経営が好転し、江戸期を通じて最も営業利益が伸びました。これにともない三井各家の賄い料も増え、文化面への支出も顕著になっていきます。そのなかでも特に茶道具収集が盛んに行われるようになり、多くの大名物や中興名物などをこの時期に取得しています。

2三井家創業期の文化面1=茶の湯
高利所持の赤楽茶碗

三井高利は井原西鶴の『日本永代蔵』で「大商人の手本」「世の重宝」と称賛され、道楽には見向きもしない商売一筋のイメージがあります。しかし、豪商と言われるほどの大商人は、趣味道楽の世界にも通じており、文化面にも名を遺すのが通例です。特に茶の湯は日本の伝統文化として中世・近世の主要都市で盛んであり、高利といえども心得がなくては済まされない文化でした。それを雄弁に物語る資料として高利が所持した赤楽茶碗(銘再来)が伝わっています。毎年松坂に集まった一族の椀飯(おうばん)振舞いの席で、高利が濃茶を点てたという茶碗です。樂家三代道入(通称ノンコウ)の作で、高利の生前に室町三井家初代高伴が所望して譲られ、以来、三井家を転伝してきました。高利の茶の湯に関する唯一の遺品です。

享保年間(1716〜36)

三井家における茶の湯は、高利の時代から嗜まれていたことは、赤楽茶碗(銘再来)の存在でわかりましたが、高利の妻かねが実家の中川家から持参したと思われる台子皆具(だいすかいぐ)が、伊皿子三井家の正徳5年(1715)の道具帳に、かね(寿讃)の遺物として記載されています。茶の湯が盛んであった松坂の豪商の間では、当然嗜むべき文化であったことがうかがえます。
三井家における名物茶道具の収集の最初に来るのが、足利義政所持の東山御物で大名物の唐物肩衝茶入(北野肩衝)です。三井文庫の史料では、享保年間に三木権大夫への貸付金の担保物件として現れており、おそらく返済不履行でこの茶入が三井に渡り、北三井家の三代高房のころには同家の所蔵となっています。
三井家は松坂を治めていた紀州徳川家の御用を高利の頃から請けており、その関係からか茶の湯は紀州徳川家に出仕していた表千家との関わりが深くなります。当館まで伝わった茶道具では、表千家六代覚々斎宗左から、享保7年(1722)の元旦に到来した赤楽白蔵主香合が早い例といえます。

北三井家二代高平(1653〜1737)

三井家の事業は、高利の息子たちが担い手となって発展してきたことはすでに紹介しましたが、元文年間(1736〜41)に三井家事業は急成長します。それに伴って茶道具の中でも名物と称される名品が収集されるようになります。このことは、それぞれの名物の伝来や、添状や箱書、道具帳などを丹念に調べることでわかってきました。
二代高平のまとめた「宗竺遺書」では、驕り高ぶり、行き過ぎた道楽などは厳しく戒めていますが、晩年の隠居後の趣味生活は身分相応に認めています。高平自身、邸内に茶室を持ち、本格的に茶の湯を嗜み、茶道具を自作し、名物の収集も始めています。なかでも中興名物の瀬戸二見手茶入(銘二見)は、後の北三井家においても代表的な茶入として、晴れがましい茶事で使われてきました。

北三井家三代高房(1684〜1748)

北三井家三代高房は、18歳の時に幕府の御為替御用を請け、享保年間に33歳で八郎右衛門を襲名し三井家を代表する立場に立ちます。この頃、三井家では高利の子供たちにより家法「宗竺遺書」や、家と事業の記録「商売記」・「家伝記」がまとめられ、それに合わせて高房が父高平の見聞をまとめた「町人考見録」を著わしており、三井家の歴史を振り返るとともに、その後の三井家の事業方針が固められた時期でした。
このようななかでも高房は多趣味な生活を送っています。物見遊山や参詣など各地を旅行しており、茶の湯では、表千家六代覚々斎宗左の高弟・服部道円から真台子を伝授され、秘伝書を写しており、本格的に茶の湯を嗜んでいます。京都と松坂との往来では、伊賀の西蓮寺に立ち寄って所望した伊賀茶碗(銘西蓮寺)が伝わっています。

元文年間(1736〜41)

この頃高房が所持した名物に中興名物の瀬戸塞手(こしじで)茶入(銘常如院)、同面取手(めんとりで)茶入(佐久間面取)などがあります。高房は、元文2年(1737)に父高平が没した翌年、近江の安楽律院の霊空和尚に帰依して出家しています。またその際に西国霊場を巡錫し、さらに長崎にも旅行しており、南蛮屏風はその時に入手したとされています。

新町三井家「元文道具帳」記載

元文年間に三井家で茶道具の名品が収集され始めたことを窺えるものとして、新町三井家の「元文道具帳」があります。現物は寄贈されていませんが、この道具帳に記載されている茶道具が当館に寄贈されており、珠光青磁茶碗(銘波瀾)以下、茶碗4点、茶入3点が伝わっています。
元文年間の新町三井家の当主は、二代高方(たかなを)ですが、高方も高房同様に各地に旅行しており、信仰心も篤く、道明寺や北野天満宮などに浄財を寄進しています。「元文道具帳」記載の茶道具は、この高方と三代高弥が収集したものと思われます。

以上、三井家の事業が、高利とその息子たち、さらには高房ら三代目へと発展し、さらなる高度成長を遂げる元文年間は、三井各家の賄い料も増え、趣味生活に費やす余裕が生まれたことが想像されます。特に茶の湯は京都の豪商として必須の教養でもあり、茶道具の名品を所有することがステイタスでもあり、また商取引上の担保物件ともなるところから、三井各家でもこの頃から名物茶道具の収集がはじまりました。三井家寄贈の名物茶道具や道具帳からその動きが垣間見えてきます。

3三井家の文化面2=神々への信仰
福の神への信仰

商売繁盛に結び付く大黒天・恵比寿の二神は、商家である三井家にとって特に重視されてきました。豊穣や大漁、商売繁盛を願う民間行事として知られる蛭子講(えびすこう)は、三井の呉服部門である越後屋では一種の年中行事として行われており、大黒天・恵比寿の絵や彫像を祀ったことが分かっています。特に北家三代高房は大黒・恵比寿図を多く描き、その作品は三井各家や江戸・大坂の店舗に贈られ、飾られたと伝わります。元文年間以降の蛭子講では、高房の描いた大黒・恵比寿図を飾ることが習わしとなったことから、三井家の内部では高房の作品そのものにも、商売繁盛や家業安泰を祈念する役割が付与されていきました。

伊勢神宮への信仰

三井家の「家祖」三井高安は、佐々木六角氏の武士として越後守を名乗っていましたが、六角氏が信長に滅ぼされるに及んで、高安は一族を連れて伊勢に移り住み商人となったとされています。
この高安の次男元吉が、伊勢山田の御師(おんし)落合藤太夫の養子となって跡を継ぎ、落合権太夫を名乗っており、伊勢神宮との関りは当時から深いものがありました。高安や高利の大遠忌などには伊勢に参詣し、御師落合家で太々神楽をあげるのが習わしでした。享保12年(1727)の太々神楽の史料や、京都の本店から出入りの職方の伊勢講に寄贈された伊勢参詣曼荼羅などが伝わっています。

三囲(みめぐり)稲荷への信仰

三囲神社は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)を祭神とする神社です。それまでさほど有名ではなかった同社の名が知れ渡ったのは、元禄年間ごろに俳人・宝井其角(たからいきかく)がこの地で雨乞いの句を詠んだのがきっかけで、それ以後は俳諧の聖地としても親しまれました。
江戸における三井家の守護神として同社が信仰されるようになったのは享保年間(1716〜36)前後とされ、三井家が越後屋を構えた江戸本町からみて東北の地に位置するため、鬼門除けとしての役割を期待されたことや、三囲の「囲」の字が「井」を含み、「三井」に通じることなどが、信仰の契機と考えられています。三井家とその組織は時代を通じ、社殿や本殿の修理や改築を支援したほか、現在も三越各店には分霊が祀られており、今に至るまで同家とのゆかりの深さを物語っています。

先祖を祀る顕名(あきな)霊社

顕名霊社は三井家の先祖を祀る祖霊社で、現在は東京の三囲神社の一角に設けられています。呉服商を営んだ三井家では創業以来、絹織物にゆかりの深い養蚕神を祀った、太秦の木嶋神社の摂社である蚕養(こかい)神社を信仰してきました。その後、宝暦~安永年間(1751〜1781)にかけて、木嶋神社の神官・神服(かむはとり)氏の内祭殿に先祖の神霊を勧請し、顕名霊社と名付けたことを契機に、同社を信仰するようになります。顕名霊社には家祖高安夫妻をはじめ、没後100年を経た各家の当主夫妻の霊が祀られており、高安着用と伝わる甲冑などが神宝として奉納されていました(現在は三井文庫にて保管)。

会期
2023/6/28(水)〜8/31(木)
開館時間
10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日
月曜日(但し7月17日、8月14日は開館)
主催
公益財団法人三井文庫・三井記念美術館
協賛
三井グループ350周年記念事業実行委員会
350周年ロゴ
入館料
一般 1,000(800)円
大学・高校生 500(400)円
中学生以下 無料
  • ※70歳以上の方は800円となります。(要証明)
  • ※20名様以上の団体の方は( )内割引料金となります。
  • ※リピーター割引:会期中一般券、学生券の半券のご提示で、2回目以降は( )内割引料金となります。
  • ※障害者手帳をご呈示いただいた方、およびその介護者1名は無料です(ミライロIDも可)。
入館
予約なしで入館できますが、1階入口で消毒と検温をお願いします。
37.5度以上の熱がある方は入館をご遠慮いただきます。入館にはマスク着用のご協力をお願いします。また、展示室内の混雑を避けるため入場制限を行う場合があります。

ご来館のお客様へのお願い

お問い合わせ先
050-5541-8600(ハローダイヤル)
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