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2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」に合わせて開催する特別展。徳川家康は戦乱の世にリーダーとしてたくさんの「どうする?」を突き付けられ、逃げることなく答えを出し続け乱世を終わらせました。この展覧会は家康の出生から他界までを文化財を通して紹介し、家康の生きた時代を浮き彫りにします。三井記念美術館から岡崎市美術博物館・静岡市美術館へと巡回する展覧会です。

出品目録

展覧会の趣旨

2023年のNHK大河ドラマは、62作目となる「どうする家康」です。これまで数多くの大河ドラマに登場してきた徳川家康ですが、単独主役は1983年の「徳川家康」以来40年ぶりとなります。

家康が生きた戦乱の世は、まさに予期せぬことが次々に起きる時代。家康は、リーダーとして、たくさんの「どうする?」を突き付けられ、ピンチを招いた局面でも、決して逃げずに答えを出し続け乱世を終わらせました。先行きの見えないのは現代も同じ。今回の大河ドラマでは、家康を現代に通ずるリーダー像として、様々な人間との関係を大切に描いています。

本展覧会では、このNHK大河ドラマ「どうする家康」と連動し、徳川家康のほか、織田信長、豊臣秀吉など、様々な戦国武将にまつわる品々や、同時代の美術品・歴史史料などを紹介し、徳川家康と彼が生きた時代を浮き彫りにします。

展示構成

この展覧会は三井記念美術館に始まり、岡崎市美術博物館と静岡市美術館を巡回する展覧会です。展示作品は作品保護の観点から、会場ごとに異なりますが、展示の構成は共通しており、以下の章立てでの展示となります。

  • 第1章「家康誕生」―今川からの独立と三河平定
  • 第2章「戦国乱世の選択」―今川・武田との抗争
  • 第3章「豊臣大名徳川氏」―豊臣政権下の家康
  • 第4章「天下人への道」―関ヶ原から江戸開府
  • 第5章「大御所時代」―駿府での生活と大坂の陣
  • 第6章「東照大権現」―家康、神となる

主な展示作品

展示室1徳川家康の遺愛品 【第5章「大御所時代」】

当館での展示は、展示室の配置と大きさの関係上、章立て順の展示が難しいため、展示室1は第5章「大御所(おおごしょ)時代」の展示からはじまります。徳川家康は、慶長10年(1605)に将軍職を二代秀忠(ひでただ)に譲った後、駿府(すんぷ)(静岡市)に隠居し、大御所政治を行います。駿府城を築城し、城下の整備を進め、駿府での生活が始まりますが、駿府城内で身近に使われていた家康の遺愛品が、他界後に久能山東照社(くのうざんとうしょうしゃ)に納められました。そのなかから武器、茶道具、文房具、調度品(ちょうどひん)などを展示いたします。

図1は、家康が所持した脇指(わきざし)で、他界(たかい)後に久能山東照社に納められたものです。ご神体として祀られた三池光世(みいけみつよ)作とされる太刀(ソハヤノツルキウツスナリ)(図27)とともに本殿内陣(ほんでんないじん)(まつ)られていました。前期で刀身、後期で(こしらえ)((さや))を展示いたします。

図2は、家康が駿府城下で作らせた火縄銃(ひなわじゅう)です。筒の銘から野田善四郎清堯(のだぜんしろうきよたか)が慶長18年(1613)に作ったことがわかります。家康は鉄砲の名手だったようです。

図3は、家康がスペイン国王から贈られた洋時計です。慶長14年(1609)スペイン属領のフィリピン総督ドン・ロドリゴらがメキシコへの航海中に房総沖で遭難し、家康がこれを救助し帰国の船を提供しました。それに対する謝礼として、慶長16年にスペイン国王から贈られた時計で、ゼンマイ式時打(ときう)ち時計としては国内現存最古の時計です。

図4は、家康が自ら調合(ちょうごう)した薬を入れたガラス製の薬壺(くすりつぼ)です。「びいどろ」はポルトガル語のガラス「ヴィドロ」が語源。中に入っている茶色の粉末は、胃腸の薬とされる「陳皮(ちんぴ)」(ミカンの皮を干したもの)のようです。

展示室2国宝の刀剣 【第4章「天下人への道」】

ここでは当館所蔵の国宝の刀剣2点を前期と後期に分けて展示いたします。前期は、図5の短刀無銘正宗(たんとうむめいまさむね)(名物 日向正宗(ひゅうがまさむね))です。鎌倉時代の相州正宗(そうしゅうまさむね)の作品中、短刀の筆頭に挙げられる名刀で、石田三成が所持し、妹婿福原直高(なおたか)(のち長堯)に与えたが、関ヶ原の合戦で、水野日向守勝成(みずのひゅうがのかみかつなり)が手に入れたところから、日向正宗と呼ばれています。後期は、図6の短刀無銘貞宗(むめいさだむね)(名物 徳善院貞宗(とくぜんいんさだむね))です。正宗の実子とも養子ともいわれる貞宗の短刀で、秀吉が所持し、五奉行の前田徳善院玄以(まえだとくぜんいんげんい)が拝領したところから徳善院貞宗と呼ばれています。その後家康が所持しました。

展示室3江戸入りと日本橋架橋 【第3章「豊臣大名徳川氏」】

天正18年(1590)小田原の陣で、家康は秀吉から関東への転封(てんぽう)を命じられ、そのまま江戸城に入りました。そこから家康による江戸の街造りが始まります。その江戸へとつながる五街道の起点とされたのが日本橋です。慶長8年(1603)に架けられたと言われますが、はっきりしたことはわかっていません。ここではその日本橋の欄干に付けられていた万治(まんじ)元年(1658)製の擬宝珠(ぎぼし)を展示いたします。あわせて背景に江戸の鳥瞰図と古絵図のバナーを掛けます。

如庵ケース家康ゆかりの名物茶道具 【第5章「大御所時代」】

如庵ケース内では、家康の所持品で尾張徳川家に伝わった茶道具を展示いたします。図7は、堺の茶人茜屋(あかねや)が所持し、家康に伝わった大名物(おおめいぶつ)唐物茶入(からものちゃいれ)です。京茄子(きょうなす)のような形から茄子茶入(なすちゃいれ)と呼ばれました。

展示室4 
プロローグ大日本五道中図屏風でたどる家康の足跡

展示室4の始まりは、第1章から第6章までのプロローグとして、当館で所蔵する大日本五道中図屏風(だいにっぽんごどうちゅうずびょうぶ)で、家康の一生をヴィジュアルにたどります。この屏風は江戸から長崎までの街道を描いた鳥瞰図的な絵図ですが、ここではそのうちの江戸から京都までの東海道・甲州街道・中山道を描いた8曲2双を展示いたします。

この屏風は江戸時代初期、家康没後30年頃の景観が描かれており、岡崎城、浜松城、駿府城、甲斐、信濃、小田原城、関ヶ原の布陣、名古屋城、そして久能山東照宮(図8)など、家康の一生をたどることができます。まずはここで家康の足跡を確認していただきます。

第1章「家康誕生」―今川からの独立と三河平定

家康の誕生は、東照宮縁起絵巻(図9)でご覧いただきます。それに加え、祖父の松平清康(まつだいらきよやす)像、母の伝通院(でんつういん)(於大(おだい)の方)像、徳川家康像、今川義元(いまがわよしもと)像、家康と徳川十六将図(図10)など、主に画像を展示いたします。

今川義元が織田信長の奇襲にあって桶狭間(おけはざま) で戦死し、家康は独立への道を選び信長と同盟を結びますが、図11は、天正5年(1577)織田信長が上洛した際に、家康が祝意を伝える使者を遣わしたことに対する信長の返答で、 三河守(みかわのかみ)宛の黒印状(こくいんじょう)です。暖かくなったら安土城で面談したいと記しています。

第2章「戦国乱世の選択」―今川・武田との抗争

三河守となった家康は、武田信玄と同盟を結び、遠江(とおとうみ)へと侵攻します。信玄は駿河の今川氏真(いまがわうじざね)を攻め、氏真は掛川城に退去します。家康は掛川城を攻め、和睦して開城させます。しかし信玄との同盟にひびが入り、元亀(げんき)3年(1572)信玄と三方(みかた)ヶ原で戦い、初めての大敗北を喫します。しかし信玄はまもなく病死し、息子の武田勝頼(たけだかつより)との攻防が始まります。図12は、天正3年(1575)織田・徳川連合軍が武田勝頼と戦った長篠(ながしの)の戦いの合戦図屏風です。

天正10年(1582)織田信長と家康は、武田勝頼を自害(じがい)させ、信長から駿河国(するがのくに)を与えられて三河・遠江・駿河を領し、安土城に招かれますが、その直後信長は明智光秀(あけちみつひで)の本能寺の変により自刃します。そのあとの天下人となったのが秀吉でした。この歴史の流れを信長・光秀・秀吉の画像を展示して象徴させます(図13〜15)。

第3章「豊臣大名徳川氏」―豊臣政権下の家康

天下人秀吉に家康が臣従するまでには、織田信雄(おだのぶかつ)とともに秀吉に対抗し、小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦いがありました。図16はその様子を描いた合戦図屏風です。この戦いでは、特に長久手の合戦で家康は勝利していましたが、信雄が秀吉と和睦したことから、家康も引き下がり、秀吉の妹朝日姫(あさひひめ)を娶り、秀吉の臣下となって秀吉政権を支えました。秀吉は京都に聚楽第(じゅらくだい)を建て、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を招きましたが、図17はその様子を描いた屏風です(前期展示)。

天正18年(1590)家康は秀吉の小田原の陣に参陣し、北条氏が滅亡します。後期では北条氏政(ほうじょううじまさ)氏直(うじなお)画像と氏直の夫人で家康の娘督姫(とくひめ)の画像を展示します。小田原の陣中で家康は秀吉から、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国から関東への転封(てんぽう)、すなわち領地替えを命じられます。その命に従い、そのまま小田原から江戸に入ります。

展示室5 

天正18年(1590)江戸入りした家康は、奥羽方面への出兵を命じられ、さらに文禄元年(1592)朝鮮出兵が命じられます。ここでは大日本五道中図屏風の大坂〜長崎を描いた部分を展示し、大坂城から瀬戸内海・四国・九州を鳥瞰し、朝鮮出兵の拠点となった肥前名護屋(図18)の位置関係も確認します。

文禄と慶長の二度の朝鮮出兵の間、秀吉は伏見城を築き、茶の湯や和歌や能など、文化的な遊楽を楽しみます。ここでは当館所蔵の秀吉関係の茶道具と能面を展示いたします。そして秀吉は慶長3年(1598)8月18日に他界しますが、図19は秀吉の辞世の句です。「つゆとをちつゆときへにしわがみかな なにわの事もゆめの又ゆめ」

第4章「天下人への道」―関ヶ原から江戸開府

秀吉が他界するといよいよ家康の天下人への道がはじまりますが、政権内の軋轢から家康への批判が高まり、家康を弾劾した「内府ちがいの条々」が諸大名に送られ、慶長5年(1600)9月石田三成を中心とする西軍と、家康と組んだ東軍との関ヶ原の合戦が勃発します。ここでは東照宮縁起絵巻で関ヶ原の戦いの場面を展示いたしますが(前期)、大形の関ヶ原合戦図屏風(図20)は展示室7で展示いたします。

関ヶ原の合戦で東軍が勝利し、慶長8年(1603)には征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。自他ともに認める天下人となりました。

展示室6家康の筆跡

ここでは家康の自筆の文書と絵画を展示いたします。図21は、家康と築山殿(つきやまどの)との娘亀姫(かめひめ)に宛てた自筆の消息(しょうそく)三河新城(みかわしんしろ)の亀姫になかなか会えないことを詫びた親子らしい手紙です。図22は家康自筆とされるサギの絵で、余白を生かした水墨画で素人ながら味わいがあります。

展示室7 

最初に展示室5に引き続き関ヶ原合戦図屏風を展示いたします。続いて第5章となります。

第5章「大御所時代」―駿府での生活と大坂の陣

第5章については展示室1にて展示いたしますが、展示室7においても一部展示いたします。まず家康の大御所時代は、慶長10年(1605)に秀忠に将軍職を譲ってからはじまりますが、駿府城に住むのは慶長12年(1607)からでした。それまでは、関西では伏見城(ふしみじょう)二条城(にじょうじょう)を活動の拠点としています。図23の洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)は、伏見城と二条城がともに描かれている珍しい屏風です。

駿府の生活では、駿府城内で家康が身近に使っていたものが、他界後に秀忠によって久能山に移されましたが、それらの多くは「徳川家康関係資料」として重要文化財に指定されています。家康が使い慣れた品ということで「手沢品(しゅたくひん)」とも呼ばれています。 また、この手沢品とは別に、名物茶道具など、家康所蔵の名品の数々は、他界後に「駿府御分物(すんぷおわけもの)」と呼ばれて徳川御三家に譲られましたが、展示室3の如庵ケースでは名物茶道具を展示いたします。

大坂の陣は大御所時代の最後の「どうする家康」でした。図24の大坂冬の陣図屏風は、奥絵師の狩野家に伝わった模本ですが、原本は大坂の陣後それほど時間がたっていない頃の屏風と思われ、事象が正確に描かれているようです。

第6章「東照大権現」―家康、神となる

元和2年(1616)4月17日、家康が駿府城内で他界しました。遺言に従いその日の夜、久能山に遺骸が遷され、社殿の造営が始まり、神として(まつ)られました。神号(しんごう)天海(てんかい)の主張する天台宗系の山王一実神道(さんのういちじつしんとう)による大権現号が秀忠により選ばれ、朝廷の勅許(ちょっきょ)をえて「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」に決まりました。図25は後水尾天皇(ごみずのおてんのう)による宸翰神号(しんかんしんごう)です。その後、家康の画像は神格化された東照大権現像(図26)として描かれることが多く、伝世品も相当数に及んでいます。

エピローグ御神体 家康の刀剣と甲冑

最後の展示ケースでは、神号と東照大権現像、そして家康のご神体として神社の内陣に(まつ)られた太刀(たち)(ソハヤノツルキウツスナリ)(図27)(前期)、脇指(わきざし)(無銘伝行光(むめいでんゆきみつ))(後期)、そして家康所用の甲冑金陀美具足(かっちゅうきんだみぐそく)(図28)と秀忠所用の甲冑を展示いたします。

各章の解説

第1章「家康誕生」―今川からの独立と三河平定

天文11年(1542)12月26日、岡崎城に一人の男子が誕生しました。幼名松平竹千代、徳川家康です。のちに天下を治める人物ですが、当時の松平氏は、西の織田氏・東の今川氏に挟まれた三河国の一小領主に過ぎませんでした。竹千代は駿府に暮らし、元服して名を元信、ついで元康とします。今川義元から名を一字もらった元康は、順調にいけば、今川領国の西端を統治する、今川一門に准じる有力武将として生涯を終えるはずでした。

しかし永禄3年(1560)、桶狭間にて今川義元が討ち死にしてしまいます。元康は最初の「どうする」に直面します。変わらず今川氏に仕えるか?はたまた織田氏に下るか?元康の下した決断は、自立でした。織田信長と同盟を結び、今川氏に反旗を翻した元康は、名を家康とし、花押もそれまで用いていた義元に類似したものから改めています。名実ともに一人の独立した、武将家康誕生の時です。

しかし東三河に進出した矢先の永禄6年、三河一向一揆に対峙することとなります。次の「どうする」です。西三河の真宗本願寺派寺院と周辺諸勢力が家康と争ったこの一揆は、家康三大危機の一つに数えられます。忠節と信仰の間で元康家臣団を二分する争いとなりましたが、この危機を乗り越えた家康は、西三河を手中に治めました。

再び東三河に進攻した家康は、順調に勢力を広げて行きます。吉田に酒井忠次を入城させ、東三河の統治を一任しました。そして永禄9年、三河における今川の最後の拠点であった牛久保を攻略し、ついに家康は三河統一を果たします。室町幕府将軍不在の中で、家康は近衛前久の取り計らいにより、従五位下三河守に叙任され、徳川に改姓しました。一国の大名となった家康は、強大な存在である武田氏と対峙することになります。さあ、どうする家康!

第2章「戦国乱世の選択」―今川・武田との抗争

三河を平定した家康は遠江へ進出し、今川氏を攻め立てます。この家康の二十代後半から四十代はじめにかけての血気盛んな時期、武田氏が最大の敵として立ちはだかります。

家康は当初、武田信玄と協調し、今川氏を挟撃し滅ぼしました。しかし、その過程で家康と信玄の関係は徐々に悪化、ついには敵対することに。元亀3年(1572)、家康は三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫し、さらに美濃国から三河国へ武田軍が侵攻し、家康領国は危機的な状況に陥ります。そうした中、武田信玄が死去したことにより、家康は何とか難を逃れました。そして天正3年(1575)、長篠の戦いで、家康は武田信玄の子勝頼が率いる武田軍に大勝します。この戦いは数多くの合戦図屏風が作成され、家康にとっても大きな節目となる勝利であったことがうかがえます。しかしその後も武田氏との抗争は続きます。遠江を巡り幾度も戦いが繰り広げられ、さらに武田氏との内通の疑いから、家康は正妻築山殿と長男信康の処罰を命じました。この事件を直接記す資料は、ほとんど残されていません。しかし家族を切り捨てるという決断に至る背景には、多くの苦悩に満ちた「どうする」があったことでしょう。

また武田氏に対抗するため、家康は多くの選択をしています。上杉謙信との同盟や北条氏との関係構築、将軍足利義昭との決別、そして織田信長との同盟の継続。信長との関係は、長篠の戦いの頃から、信長への従属へと変化していきました。天正10年(1582、干支は壬午)は激動の年となります。武田氏の滅亡、本能寺の変。信長亡き後の動乱の中で、家康は旧武田領国を押さえ、五か国を統治する大大名へと飛躍しました。しかしその統治は未だ盤石なものではなく、さらに信長の後継者争いに勝利した秀吉との関係も、徐々にひずみを生じていきます。さあ、どうする家康。

第3章「豊臣大名徳川氏」―豊臣政権下の家康

天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が自刃したあと、天下統一事業の継承に向けていちはやく動き出したのは羽柴秀吉でした。中国地方の覇権を巡り争っていた毛利氏と講和を結ぶと、すぐさま引き返して明智光秀を討ち、翌年には柴田勝家を滅ぼして信長の後継者としての地位を確立します。

一方で武田旧領の甲斐および信濃を手中に収め、三河・遠江・駿河を合わせた五か国を領有する大大名となった家康は、信長の次男信雄の要請を受けて秀吉に対抗し、天正12年3月に小牧・長久手の戦いが始まります。この戦いでは徳川四天王に代表される精鋭の家臣団が活躍しましたが、信雄が秀吉と和議を結ぶと合戦の名目を失い、岡崎に引き揚げて次男於義伊(結城秀康)を秀吉の養子に差し出し和睦にいたりました。

やがて関白となった秀吉は、家康のもとに妹の朝日姫を正室として嫁がせ、さらには生母大政所を岡崎に送って懐柔を図ります。ついに上洛要請に応じた家康は、大坂城で秀吉に謁見し臣下の礼をとりました。こうして豊臣政権下の一大名となった家康は、後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉したのをはじめ、天正18年には小田原征伐に参陣。戦後、北条氏旧領であった関東移封の命に従い江戸入りしますが、苦難の末に統治した五か国を手放すことは思い切った決断が必要だったと想像されます。

文禄元年(1592)の朝鮮出兵では肥前名護屋に在陣し、秀吉の渡海をいさめる慎重な姿勢を見せたことは注目に値します。そして家康は、豊臣家の末永い安泰を願う秀吉の意をくみ、秀頼への忠誠を誓う起請文を提出し、また大名間の私婚等を禁じる掟書の通達を毛利輝元、前田利家らと連名で行うなど、政権を支える重鎮としての役割を果たしました。しかし二度にわたる朝鮮出兵による疲弊に加え、秀吉の死期も目前に迫ってきました。さあ、どうする家康。

第4章「天下人への道」―関ヶ原から江戸開府

慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が世を去ると、天下は再び動乱の兆しを見せ始めます。家康は朝鮮半島に出兵中の軍勢を撤退させるという重要な任務を指揮する一方、遺命に背いて有力諸侯との姻戚関係の拡大を図りました。これが石田三成ら奉行との間に軋轢を生むことになります。翌慶長4年、大老前田利家の死後に発生した加藤清正、黒田長政らによる襲撃計画を機に三成を失脚させ、自らは秀頼を後見する立場として大坂城西の丸に入り、政治の主導権を握りました。

慶長5年(1600)6月、上杉景勝に謀反の疑いをかけて討伐を宣言し会津に向けて進発。その隙を衝いた三成が大坂で挙兵し、長束正家、増田長盛、前田玄以の三奉行が家康を糾弾する「内府ちがいの条々」を各地の諸大名に送ります。そして徳川方が守る伏見城を包囲、陥落させて合戦の火蓋が切られました。

三成挙兵の報せを受けた家康は、従軍する諸将を集めて下野国小山で軍議を開き、西上して雌雄を決することを決断。天下を二分した争いが全国に飛び火する中、9月15日ついに両軍が美濃国関ヶ原で激突します。一進一退の激しい攻防が繰り広げられますが、東軍に内応していた小早川軍が西軍への攻撃を開始したことで戦局は大きく傾き、「天下分け目」と呼ばれる関ヶ原の戦いは僅か一日で東軍の勝利で決着がつきました。

戦後の論功行賞では秀頼の政務を代行する形で、三成に加担した反対勢力の減封・改易を断行するとともに、自らに味方した諸将への再配分と大規模な配置換えを推し進めます。そしてついに慶長8年2月12日、朝廷から征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開き、家康は名実ともに天下人となったのです。豊臣家はもはや徳川政権下の一大名になったとは言え、西国には恩顧の大名たちもいまだ健在。世を盤石にするために、なすべきことは何か。さあ、どうする家康。

第5章「大御所時代」―駿府での生活と大坂の陣

慶長8年(1603)2月に家康は征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きますが、2年後の慶長10年正月には息子の秀忠が征夷大将軍に任じられます。将軍職は徳川家が世襲することを世に示しました。家康は「大御所」と呼ばれ、二代将軍秀忠の後ろ盾となって政治を左右する「大御所時代」がはじまりました。当初は江戸城や京都の伏見城・二条城などを活動の拠点としていますが、慶長11年(1606)に家康にとっては第二の故郷ともいえる駿府(現静岡市)を退隠の地と定め、翌年2月に駿府城の普請をはじめ、7月に駿府城に移りました。

駿府での生活は隠居とはいえ精力的なものと言えます。重要な政治的案件は家康が決め、東南アジアのほかスペイン、オランダ、イギリスなどとの貿易や、社寺への法度など宗教政策についても家康が指針を決めています。文化面では駿府城下での銅活字印刷による駿河版の発行、古典籍の収集、鉄砲製作や能役者の集住、香や漢方薬の調合など、家康の視野の広さには驚かされます。その間に好きな鷹狩を頻繁に行っていました。久能山東照宮や徳川美術館などに伝わる家康の遺品の数々は、大御所時代の生活を雄弁に物語ってくれます。

このような大御所時代のなかでも常に懸案となっていたのが大坂の豊臣家の存在でした。最後で最大級の「どうする家康」です。方広寺大仏鐘銘事件に端を発した冬と夏の二度にわたる大坂の陣で、最後は豊臣秀頼と淀殿が自刃し、大坂城と共に豊臣氏は滅亡しました。反徳川勢力も一掃され、ここに戦国の世は幕を閉じました。徳川幕府による太平の世が実現したのです。

第6章「東照大権現」―家康、神となる

慶長20年(1615)大坂夏の陣が終わってすぐ改元され元和元年となりました。家康は8月に駿府に帰り鷹狩を楽しむ日々を送っていましたが、翌元和2年2月に駿河の田中(現藤枝市)での鷹狩中に発病しました。食中毒が原因のようです。家康は急遽太政大臣に任じられました。死期を悟った家康は「久能山に遺骸を納め、葬礼を増上寺で行い、三河の大樹寺に位牌を置き、一周忌以後に日光山に小さき堂を建て、関八州の鎮守となりたい」という遺言を残しています。

元和2年(1616)4月17日家康は駿府城内で他界しました。75歳でした。遺体は遺言に従いその日の夜に久能山に遷されました。19日には神龍院梵舜により吉田流神道で埋葬されました。しかし翌20日には駿府城内で天海と崇伝の間で家康の神号について論争が起きます。権現号を主張する天海と明神号を推す崇伝の論争は最終的には将軍秀忠が決めることです。結局、5月下旬に秀忠は天海を呼び出し権現号に決めたことを伝え、上洛させて勅許を得ました。朝廷からは「東照・日本・霊威・東光」の4案が示され、秀忠は「東照大権現」を選びました。

久能山東照社(東照宮となるのは正保2年(1645))の社殿は元和3年12月に完成し正遷宮が行われましたが、それ以前の3月に天海をはじめ天台宗の僧侶や幕府の重臣らにより、家康の神柩が久能山から日光山に遷されました。日光山にも秀忠により社殿が建てられており、ここに家康は久能山と日光山に神「東照大権現」として祀られたのです。その後各地に多くの東照宮が建てられ、江戸の太平の世のみならず現代まで崇敬が続いています。

以上、「どうする家康」と問いかけて家康の一生を見てきましたが、家康が「どうした」のかがこの展覧会でご理解いただければ幸いです。

会期
2023/4/15(土)〜6/11(日) ※会期中、展示替えを行います。
開館時間
10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日
月曜日(但し5月1日は開館)
主催
三井記念美術館、NHK、NHKプロモーション
協賛
凸版印刷、ハウス食品グループ
入館料
一般 1,500(1,300)円
大学・高校生 1,000(900)円
中学生以下 無料
  • ※70歳以上の方は1,200円となります。(要証明)
  • ※20名様以上の団体の方は( )内割引料金となります。
  • ※リピーター割引:会期中一般券、学生券の半券のご提示で、2回目以降は( )内割引料金となります。
  • ※障害者手帳をご呈示いただいた方、およびその介護者1名は無料です(ミライロIDも可)。
  • ※【日本橋きものパスポート】お着物にてご来館のお客様は入館料を100円引きさせていただきます。(他の割引との併用はできません)
    日本橋きものパスポート
音声ガイド
本展では、大河ドラマ「どうする家康」で於愛の方を演じる広瀬アリスさんが、家康の生涯とその人間味あふれる魅力を展示品と共にご紹介します。
音声ガイドは、ガイド機のお貸出しとスマートフォンアプリの両方をご用意しております。
アプリでは、コンテンツをご自身のスマートフォン・タブレットに一度ダウンロードいただけば、配信期間中何回でも視聴可能です。
事前にダウンロードして会場にお越しいただくと、スムーズにご鑑賞いただけます。
■ガイド機のお貸出し
貸出料金:650円(税込)
■アプリ配信版(iOS/Android) ※2023年4月15日(土)より配信開始
配信価格:650円(税込)
配信期間:2023年4月15日(土)~2023年6月11日(日)(予定)
広瀬アリスさん
撮影:山川修一(扶桑社)
ナレーション:広瀬アリスさん
■アプリ配信版ご利用方法

①まず、アプリストアから「iMuT」をダウンロード。

iMuT QRコード App Atore Google Play

②アプリ内の「どうする家康」展の音声ガイドコンテンツ(¥650)を選択して決済、ダウンロードしてください。

※展覧会会場内でご使用の場合は、ご自身のヘッドホンもしくはイヤホンをご利用ください。
※会場内での通話、スマートフォンのカメラ機能の使用はご遠慮ください。
※お使いのOSのバージョンや機種によって、ダウンロードできない場合がございます。

■音声ガイドに関するお問い合わせ
株式会社アートアンドパート
03-6427-5635
窓口時間:9:30~18:30 / 土日・祝日を除く
「刀剣乱舞ONLINE」パネル展示コラボ
キャラクターイメージキャラクターイメージ
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「太刀 無銘 光世作 切付銘 妙純傳持 ソハヤノツルキウツスナリ」(4/15〜5/14展示、久能山東照宮博物館所蔵)と、「短刀 無銘正宗(名物 日向正宗)」(4/15〜5/14展示、当館所蔵)の展示を記念し、刀剣男士「ソハヤノツルキ」と「日向正宗」の等身大パネルを、会期中美術館1階入口に展示いたします。(写真撮影可)
※展示場所は7階美術館内に変更になる可能性がございます。

入館
予約なしで入館できますが、1階入口で消毒と検温をお願いします。
37.5度以上の熱がある方は入館をご遠慮いただきます。入館にはマスク着用のご協力をお願いします。また、展示室内の混雑を避けるため入場制限を行う場合があります。

ご来館のお客様へのお願い

お問い合わせ先
050-5541-8600(ハローダイヤル)
巡回先
[岡崎展] 岡崎市美術博物館 2023年7月1日(土)〜8月20日(日)
[静岡展] 静岡市美術館 2023年11月3日(金・祝)〜12月13日(水)
※出品作品は会場ごとに異なります。
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